2020/03/06

मी komori वकील कार्यालय ईमेल आला (BU)


[この手記を読む方に]
ここに紹介するのは、覚せい剤による幻聴に追い詰められ、鉄道に飛び込んでしまった、ある人の手記です。
彼は当初、生き延びてしまったことをうらみ続けたそうです。しかし今、彼は、車椅子の生活のなかで、さまざまな後遺障害と闘いながら、将来を必死で模索しています。
これからの人生を前向きに生きるために、苦しみながら、この手記を記しました。
語れないほど重い体験をことばにするのに、長い時間がかかりました。それは、書くことで、忘れたいあの日を繰り返して経験するという、過酷な作業でした。
覚せい剤は危険な薬物です。しかし、乱用者の大半は、手記の筆者のような体験をすることなく、乱用から離れているのが現状です。また、覚せい剤による幻覚・幻聴の内容は人によって様々で、手記の筆者のように恐ろしい体験をするひとは、むしろ稀だと思います。
この手記から「覚せい剤を使うと、こんなに恐ろしいことが起きる」という、メッセージだけを受け取るのは、早合点だと思います。彼の悲劇には、多くの要因が関係しているはずです。引き金をひいたのが、覚せい剤によってもたらされた幻聴だったのでしょうか。
2004年3月
source元
KoMoRi弁護士
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<b>友達に突然「覚せい剤やってみない?」と言われたら、普通なら断るはずです。中には、「一度くらいなら大丈夫だろう」と手を出す人もいるかも知れませんが。
私が覚せい剤を使用した、最初のきっかけからお話したいと思います。</b>
私が24歳頃の出来事です。
私は風邪を引き、寝込んでいたところに、近所に住む友達が遊びに来たのですが、熱も有り、咳も止まらないので、とてもじゃないけど遊びになど行けないと伝えると、その友達は、「すぐ治る薬が有るから今持って来てやるよ!」 と、透明な液体の入った一本の注射器を持ってきました。
私は、不審に思い
「お前それなんだよ?」と聞くと、
「解熱剤だよ!何の心配もないって!俺の女房が、病院から持って来た物だから大丈夫だよ!」と言われ、そういえば友達の奥さんは、病院の、しかも、内科の看護婦さんをしていたことを思い出し、言われるままに自分の腕を出していたのです。
友達は、私の腕に注射し終わると、
「本当は、静脈注射といって、血管に注射するのが一番早く効くのだけれどプロじゃないと出来ないから筋肉注射が無難なんだって。10分もすれば十分効果が出るから大丈夫だよ!」
などと、もっともらしい事を言い、
待つ事10分もしなかったと思います。
咳も止まり、妙に身体が楽になり始め、何とも言えない爽快感を味わい始めていたのです。
その時の気分は、今でも鮮明に覚えています。ひとことでは、言い表すことが出来ないほどの爽快感を覚えていたのです。咳き込んでいたのが、信じられないほどピタリと止まり、気怠くてしょうがなかった身体も不思議なくらい軽くなり、元々テンションの高い私では有りましたが、更にテンションが高くなり、何故か一晩中起きていながらも次の日は、仕事に行くことが出来ていただけでなく、その日の晩も、疲れを忘れたかの様に、遊び歩いていたのです。
それから1週間くらいたった頃だったと思います。その友達が、また薬を持って遊びに来たのです。その時の私は、さすがに不審感を抱き、「おまえ、それ一体何だよ!俺の納得できる説明してくれよ!」と、問い質し、その時初めて私が使用した薬物が、「覚せい剤」であることを知ったのです。
友達に、「別に副作用とか、禁断症状が出るものではないし、俺もここ数ヶ月使用しているけど何でもないよ!見ていて分かるだろ。」等と言われ、友達の言うように、禁断症状も無く、確かに気分爽快になったことも間違いの無いことで、納得してしまいました。
その当時の私は、「覚せい剤」というものは、薬が切れると禁断症状が出たりする、恐ろしいものだと思っていたので、実際使用してみて「何でもないではないか!」と、思うと同時に「覚せい剤を、静脈注射したらどんな気分になるのだろう?」等と興味を持ち始めてしまったのです。
「覚せい剤」と知りながら使用した2度目は、静脈注射。
それは、私にとって衝撃的なものでした。2度目の使用から、3度目と、使用することになるまでは、2週間もかかりませんでした。始めの頃は、1ヵ月に2~3回程度のものでしたが、それがやがて、遊びの感覚で、使用する回数が増えていったのです。
使用をためらう気持ちなど、全く有りませんでした。覚せい剤は、ただで手元に入ってくるし、仕事がおろそかになったり、体調を崩すなど、薬の悪影響はほとんどありません。「やめようと思えば何時でもやめれる。」と思う気持ちのほうが、強かったのです。
しかし、いくらただで覚せい剤が、手に入れられるからと言って、あまり頻繁に持ってきてもらう事には、多少のためらいは、有りました。
何故なら、依存していると、思われたくなかったからです。
当時の私は、「依存」ということも良く知らず、「たかがクスリを止められないなんて、弱いやつだ」という意識があったので、私がクスリに頼っているように思われるのは心外で、他人に、あまり弱みを、見せたくなかったのです。ですから、「風邪を、ひいた」とか、「歯が、痛い」等と、口実を作っては、「覚せい剤」を持ってこさせ使用していたのです。
1年ほどたった頃には、覚せい剤だけではなく、あらゆる薬物に興味を抱くようになっていました。薬物なら何でもかんでも試して、過ごした時期でした。
私が使用した薬物の中には、ことばにならないほどの、戦慄を覚えるものも数多く有りました。そういった薬物は身の回りから遠ざけ、自分の感覚で「これなら大丈夫」と思うものを、いつも手元に置いておくという、生活を送っていたのです。
所持していた薬物は、「非合法」なもの、「合法」とされているもの、様々でしたが、その頃の私は、異様なまでに薬物に対して執着していたのです。
そんな生活を、送っているのですから当然の事ながら私生活も少しずつ乱れ始め、物事の考え方も乱れ始めていたのです。まず、私が「覚せい剤」を使用して、初めて不安な気持ちになった時のことを、お話しておきます。
それは、思うように身体が動かなくなってしまったのです。
元々、私は機能障害を抱えていた事も有ったのですが、そんな身体なのに薬物を、乱用していた訳ですから当然の事なのです。しかし、その当時には、体調が悪ければ覚せい剤を使用することで、「何とかなるだろう!」等と思ったりもしていたのです。
その頃から、週に、2~3度使用する様になっていました。
1日に、2~3回使用する事も有りました。使用方法は、直接血管に注射する「静脈注射」ですが、そのような方法で覚せい剤を、乱用することに対して私の身体は、正直でした。今まですんなり血管に注射できていたのに、思うように血管に入っていかなくなっていたのです。
正直言って、不安でした。
 「このまま使用し続けて、本当に大丈夫なのか!」
 「以前のように、1か月くらいは、インターバルをとったほうが良いのでは?」
等と自問自答する日々が、続いていました。
しかし、薬をやることにためらいを感じるのではなく、薬を止めることに躊躇を感じるようになっていたのです。
何故なら、急に止めたらどうなるか想像する事が出来なかったからです。
そこで、私は、「急にではなく、徐々に回数を、減らして行けば大丈夫だろう。使用する回数が多いから身体に負担がかかるのだから」等と思い、薬と決別することを考えず、回数を減らすことだけを考え使用しつづけていたのです。
<b>
気が付いた時には、周りには、暴力団、いわゆる「ヤクザ」との付き合いが多くなっていました。私に覚せい剤を教えてくれたのもそのうちの一人でした。</b>
当時の私は、昼と夜の顔を持つ、生活を、送っていました。
昼は、正業に就く一般の社会人として。
夜は、今の言葉で言うと「企業舎弟」です。
薬物の売人こそやってはいませんでしたが、それはもう好き勝手に遊び歩き、その遊び歩く為なら、人のやれないことも、やらないことも、金の為なら何でもやっていたのです。
私が薬物を使用していることを知っていたのは、ごく一部の人だけでした。私に覚せい剤を届けてくる仲間にも、私が乱用していることを、固く口止めしていたのです。何故なら、薬物の乱用者と、思われる事が、自分のプライドが許さなかったのです。
仲間内が集まる席や、仕事場に置いては、細心の注意を払い、行動していました。
当時の私は、物事全てが、自分中心でなければ気がすまなくなっていました。
「人前に出る時だけ、きちんとしていれば何の問題もない。」と、本当に身勝手な生活を、送り続けていたのです。物事全てに対する考え方が、確実に狂い始めていました。
いくら若いと言っても体力にも限界は、有ります。全てが思うように事が運ぶわけが有りません。外で、人に会うときや、仕事の時には、普通にしていられたのですが、家に帰ればその生活たるもの、目に余るくらいの堕落した日々が続いていたのです。
確実に狂い始めていたのが、自分が一人になったときです。
それは、家族の前であったりするわけですが、私にとっては、唯一、気を使わなくてもいい場所が、一人で遊び歩いているときか、自宅に戻り、一人で部屋にいるときなのです。そんな私の生活は、家族の前では、別人のような生活を、送っていました。いわゆる「シャブよれ」です。薬物の乱用により普通の生活が、送れなくなっていたのです。
人一倍、猜疑心も強くなり、親や、兄弟に対しても、事ある度に反発し、何が「正義」で、何が「悪」なのか、現実を見極めることが出来なくなっていたのです。
<b>
乱用者の中には、おかしな行動をする者もいました。誰が聞いても理解することの出来ない発言や、不可解な行動をする者など、その内容は様々ですが、そういった仲間達には、幾つかの共通点が有りました。</b>
その共通点とは、誰が聞いても「嘘」だと分かる話を、真顔で延々と話し続けたり、待ち合わせの時間に必ずと言っていい程遅れて来たりするのです。
薬物を使用している事がばれたりすれば、手痛い制裁を受けなければならない者も仲間の中には、いましたし、放って置けば自分達の首を、自分達で締める事にもなり兼ねないので、仲間内で制裁を、加える事もしばしば有りました。
しかし、私の場合は、公の場で失敗したり、仲間に咎められる事無く行動していたので、当然の事ながら「自分だけは、他の連中とは、違う!」と思い込んでいました。
薬物を乱用するようになって、約2年程過ぎた頃だと思います。
「特別な自分」を、作り上げていた私にも、心の片隅には、多少の「罪悪感」は、有りました。
付き合いのある仲間達の堕落した姿や、信用を無くして行く姿を見て
「やはり私自身このままでは、本当にまずいことになってしまうのでは?」と、一時期本当に悩んだことも有ります。
その為に何をしたかと言うと、よく新聞などに載る「人生相談」のようなものなどに電話をかけて、私自身のこととは言えないので、「友達が、覚せい剤に手を出し、困ってるけれど、どうしたら良いですか」等と何か所も電話をかけたことが有ります。その時の私は、「ボランティアで、本気で相談に乗ってくれるところなどあるわけなど無い!まあ、自分なりにセーブしながらコンデションを整え、行動して行く他に道はないのだろう」と、結局は、薬物に手を出す事を止めず、堕落して行く日々が続いていったのです。 
しかしそんな自已中心の私をほっておくほど、世の中、決して甘くは、有りませんでした。体調を崩し寝込んでいたところに、8人ほどの警察官が、家宅捜査令状を持って、自宅に押しかけてきたのです。警察官に乗り込まれたときは、余りにも突然だったので、一体自分の身の上に何が起きたのか、状況を把握することが出来ず、組織のトラブルに巻き込まれたものと勘違いしてしまい、反射的に襲いかかる始末で、8人掛かりで押さえつけられ、その時はじめて相手が警察官であることを知りました。
普通なら拘留された時点で、反省するものなのでしょうが、「天上天下唯我独尊」と、自分自身の中に、本当にふざけた大義名分を作り上げ、全く反省することなど無く、「誰が、何の目的で警察に通報したのか?」等と私を陥れたものへの復讐ばかりを考え、日々の生活を送っていたのです。
言葉を置き換えて言うならば、「後悔」だけの生活で、そこには、何の学習も、本当の意味での向上心もなかったのだと今にして思っていますが、その当時の私は、刑務所で生活することだけが私に与えられた償いなのだと思い、過ごしていたのです。
当時の私の思いは、「俺を警察に突き出したのは、赤の他人ではなく実の親じゃないか!通報する前に何故自分に問いかけてはくれなかったのか?何故俺のことを赤の他人に話したりするんだ!」そんな思いが完全に自分の心を支配していたのです。
そんな気持ちを持って生活しているのですから、私自身の行動は、徹底していました。
一言で言うなれば、「家庭崩壊」です。
刑期を無事終えて出所して待ち構えていたのは、自分が想像していた世界とは、まるで別ものでした。そこには「犯罪者」としてみられている自分が、現実のものとして立ちはだかっていたのです。
出所したとき、私は、薬物に手を出す事無く真面目に生きてみようと思っていました。ところが、何をするにつけても過去の話を持ち出し、何も事件を起こしてもいないのに、警察官がまるで様子を伺うかの様に突然訪ねてきたりなど、私にとっては、本当に息苦しい日々を送っていたのです。そんな生活がだんだんと嫌になり、反省などと言う思いは完全に消えていったのです。
周囲の冷ややかな目線や、親への反発心が募り全てを捨てて「復讐」と言うことだけを考え始めていたのです。その思いを行動に移すまでには、それほど時間は、掛かりませんでした。自分の身を信頼できる組織に身を置き、後の事は自分やりたいように思うがままと、生活する様になっていたのです。
それでも、薬物には手を出す事無く生活を送っていました。
正直言って、何度も手を出しそうになったことも有りますが、薬物で失敗した後ですし、それ以上に、ひとりの女性との出会いが有ったからです。
私と同じような境遇の者に出会うことも、しばしば有りました。しかし、薬物と縁を切ることが出来ず、潰れていく者が多く、そんな連中を目の当りにして、やはり、薬物に手を出せば自分も同じ道をたどることになるのだろうし、組織に身を置いてる以上薬物に手を出す事は、自分で自分の首を自ら絞める事になる事を把握していたので、断ち切っていました。
正直に言えば、手を出しそうになったことは、何度もありましたが、誘惑を乗り越えることができたのは、自分自身に、守るものが出来ていたことが一番の理由だったのです。私にとって守らなければならない物とは、組織であり、自分のすさんでいく心に安らぎを与えてくれる女性であったのです。
しかし薬物には手を出すことなく過ごしていても、悪行の数々を積み重ね生活しているわけですから、本当の意味で安らげる生活など、まともに送れる訳がありません。再び厚いコンクリートの壁に包まれた中での生活を余儀なくされたのです。
最愛の妻との離別を選ばなければならなかった、自分自身の不甲斐なさ。そして、その道を選び歩き続けて行くことに戸惑いを感じながらも、あえて「全ては自分自身が覚悟を決めてきた事」と自分自身に言い聞かせ、反省も後悔もする事無く収容生活を送り、そして再び出所後、組織に身を置く生活が始まっていたのです。
当然ですが、組織に身を置くものとして誰もが思うことなのですが、大金を手に入れそしてその組織の頂点に上り詰めたいと野心を持ち歩き続けるものが多いのですから、生存競争もそれは激しいものなのです。私もそのうちの一人では有りましたし、それなりに自負も有ったのです。
ですが、どうしても譲れないことが有り、このまま組織に身を置いていたら統率が取れなくなってしまう事になる状況になると思い、正直後ろ髪を引かれるような思いでしたが、組織から抜けることを決意したのです。
自分が今まで歩き続けた道を否定しなければならない現実と、何もかも失ってしまった事を思うと、本当にやりきれない、そして、憤りを感じる毎日がしばらくの間続いたのですが、これからは本当の意味で真面目に生き抜いてみようと、決意し就職先を探し、働き始めていたのです。
不思議なもので、正業に就き働くと言う事が、ものすごく新鮮に感じたものでした。収入は、本当にたいしたことはなかったのですが、ごく普通の暮らしが案外、一番幸せなのかも知れないと、過去の自分とを照らし合わせ初めて「後悔」ではなく「反省」と言う気持ちを持ち始めていたのです。
正業に就き、これからが大事な時期だと自分自身に言い聞かせながら過ごし、少しずつ生活も落ち着き始めた頃です。私にとって転機が訪れたのです。
知人が「今の仕事を止めて一緒に仕事をしないか!」と声をかけてくれたのです。
その知人は唯一本当に信用できる人で、私が組織から抜けて正業に就き、働いていることを知り、私を信用し声をかけてくれたのです。
その知人のもとで働き初めて、半月ほど過ぎた頃です。
私は、いっしょに働く同僚の住まいの一室を間借りして、生活をしていました。
仕事を終え帰宅すると、その同僚の様子が、何時もと明らかに違うのです。その時私の脳裏をかすめたのは「覚せい剤」でした。
私を仕事に誘ってくれた知人は、元々は組織に身を置いていた事が有り、人望も厚く絶対に薬物には手を出すことの無い人でした。その部下が覚せい剤を使うことなどあり得ない、自分の勘違いであってほしいと思っていたのですが、間もなく、その同僚が私の予想通り薬物を乱用していることが明白になってきました。
ですが私も居侯の身、その同僚にも義理が有るのです。私を信用し、仕事をさせてくれている上司にも打ち明けることもできず、何時しか板挟みの生活を送っていたのです。
その月の給料日のことです。。帰宅すると、同僚の友達が遊びに来ており、何やら覚せい剤を買いに行く相談をしているのです。そして私に対し「たまには一緒にやりませんか?久しぶりでしょ!」と声をかけてきました。
正直ものすごく複雑な気持ちでした。ですが、心の片隅で声をかけてくれるのを待っていたのだと思います。長いこと封印していたものが、その同僚の一言で弾け飛んでしまったのです。
ためらいながらも、誘惑に負けてしまっていました。
覚せい剤を使用したとき、憤れない仕事で疲れきっていた身体も楽になり、遊び歩いていた頃の自分が妙に懐かしく思いだし始めていたのです。
しかし、その反面「裏切ってしまった」と言う罪悪感と、初めて味わう違和感のようなものを感じたのですが、久しぶりに手を出してしまったと言うことも有り、違和感についてはさほど気に止めることもなく、罪悪感を抱きながらも覚せい剤の魔力に取り付かれてしまっていたのです。
しかし、再び覚せい剤に手を出してしまった自分の意志の弱さと、私を信じてくれている者への裏切りと言う思いが、こみあげてきました。
「これじゃ俺は、まるで張り子の虎じゃないか!」と心の中で眩いていたのです。
裏切ってしまったという気持ちと、薬物に再びおぼれていく自分。自分の潜在意識の中で罪悪感と自分自身のふがいなさが入り混じって、複雑な環境を作り出していたのかも知れません。
初めは、隣で同じように覚せい剤を使用している同僚の声とばかり想っていました。
自分のペースで生活を送ることが出来ないものでしたから、同僚をのこしたまま、自分は部屋を出て遊びに出かけたのです。
久しぶりに味わう爽快感と裏腹に、何か何時もと違う感覚に捕らわれながらも、
気のせいだと言い聞かせながら、歩き慣れた町の中を遊び歩いていたのです。
誰かに尾行されているような気がしたのは覚せい剤を使用して1週間位経ってからのことでした。
もっと詳しく言えば尾行というより、監視されていると言ったほうが、良いかも知れません。
自分が起こす行動全てを誰かが見ていて、報告する声が聞こえ始めたのです。
初めは自分の部屋の中でその現象が起きました。
聞こえるか聞こえないか本当に小さい声が、聞こえ始めたのです。
最初は、同僚の友人でも来て話をしているのかと思っていましたが、聞き耳をたてて見るとどうやら、自分のことを言っている様に聞こえたのです。しかもその話し声は聞き覚えの無いものでした。
どこかにカメラがしかけてあるのか?それとも、盗聴器が仕掛けてでも有るのか?
何故こんな思いをしなくてはならないのか、自分自身に問いかけながらこのところまともに睡眠を取っていないから仕方がないのか?
自分自身に言い問いかけてていました。
しかし、その声は自分をあざ笑うかのように激しさを増していったのです。
覚せい剤を使用していたならまだ、これは幻聴であるとか思える自分がそこにいたかもしれません。ですが、最後に打った覚せい剤から1週間以上もたっていたのです。
自分を見失いつつ有りました。相談は出来ないし、一人で悩みくるしみました。
現実なのかそれとも覚せい剤の後遺症なのか?
自問自答しながら、日々の生活を送っていました。
同僚はまだ薬を持っている!思い切ってもう一度薬を手にしてみようかとも思いました。
しかし、ここで完全に冷静さを失ったらどうなってしまうのか?考えただけでも恐怖感を覚えていたのです。今までにも完全におかしくなった人達や、仲間を嫌になるほど見てきていたものですから、ここは一旦仕事を休んで身体を休めてみようなどと後先のことを考えず、部屋を飛び出していたのです。
自分の気のせいであって欲しい!そう願いながら部屋を飛び出しサウナに行ったり映画を見たり、お酒を飲んだりと、気分転換に徹底したのです。
何故か人ごみの中にいると、尾行されている感じが全然しないのです。
唯の気のせいなのか?仕事を休んで遊び歩いていたら、そう思えるようになって来ました。
だが、無断欠勤をしている訳ですから、部屋に帰るわけにも行かず、ホテルやサウナで寝泊りするようになっていたのです。
お金は持っていましたので、生活は大丈夫ではありましたが、一人になるとまた、何処からともなく不思議な声がしはじめたのです。
今度ばかりは幻聴ではない。誰が、何の目的で・・・?そればかりを考え始めていました。
姿なき相手、顔でも素性でも分かればいくらでも話を付けることは簡単だと思っていましたが、声だけの相手に成す術はなく、どうしたら、この尾行から逃れることが出来るのか?色々な方法を考えながら、聞こえてくる声には決して答えたりせず、聴こえていない振りをしていました。
今にしてみれば馬鹿なことをしたなーと思うのですが、ある大学の教授に電話をかけ、衛星を使って人間一人を見張るとすれば何処まで探すことが出来るのか?などと、真剣に聞たり、
知り合いの探偵事務所に電話をかけ、自分のこととは言わず、尾行をされたときの回避の仕方等も聞いたことも有ります。
実際問題、衛星を使えば、地下であっても相手が何の防御もしなければ、見張っている事は可能であると聞かされました。但し、それこそ、莫大な資金がかかるとも言われましたが、コンピュータの発達した今、幾らでも人を追跡することくらいある程度の知識と専門家がやろうと思えば出来るんじゃないか?等とその時は自分自身を完全に見失っていたのです。
ひょっとしたら、自分の知らない間に、無線機がしかけられているのでは?
そう思ったときには、持っているもの全て処分してしまっていました。
持ち物の中には、今の生活では買えない様な時計やら、MDプレーヤ等もありました。
唯一持っていたのは財布と携帯電話だけでした。
着替えの洋服も、全部新しいものに換えましたし、一応、護身用としてサバイバルナイフまで購入して、一歩間違えば殺人事件まで起こしかねない状態でした。
どうすれば良いのか自分では判断できない.
本当に今だから言える事ですが、危ない状態のとき携帯に電話が入ったのです。
相手は自分を雇ってくれた、信頼置ける人からの電話でした。
私は躊躇う事無く、正直に今までの経緯を話し、一旦その人のもとへと出向いたのです。
いずれにせよ、信用で働かせてもらったのですから、けじめは自分で付けるしかないと思いながら、
電車に乗り約束の場所へ向かいました。待ち合わせの場所で、今までの不義理を謝り、経緯を話すと、今のままでは仕事にもならないだろうと、安定剤を貰い、実家に帰ることを勧められました。
しかし、実家では、当然の事ながら良い顔はせず、今更帰って来たところでと、ののしられるばかりで、落ち着くこともできず、翌日には家を飛び出していました。
不思議なことに、家を飛び出し、サウナの仮眠室で寝泊りして2日後には、貰った薬が効いたのか、理由ははっきりとしませんが、ぴたりと人の声が止まったのです。
あの声は一体何だったのだろう?
本当にもう聴こえてくることはないのだろうか。
その日のうちに、半端なことをする私の面倒を見てくれた人のところへ顔を出しました。
本来なら恥ずかしくて顔など出せるような物ではないのですが、けじめだけはつけておきたくて仕事場まで出向いたのです。
謝ってすむ問題じゃないのですが、恩人は今一度私にチャンスをくれました。
正直、不安と言う言葉の中に身を置きながら、翌日から朝5時におきては、現場通いの生活を始めました!
家族も、本当にやり直す気が有るならば態度で示せ、といってくれたのです。
過去を振り返れば、身体が悲鳴を上げるような仕事もしてきたし、それに似た状況はいくらでも有りましたから、仕事を続けていくことに苦痛を感じる事無く、働いていました。
これで、本当の意味で更生出来る!そんな風にも感じていたのです。
しかし、待ち受けていたのは、想像を超えた悪夢のような現実でした。
再び、聞こえてこないはずの声がはっきりと耳元できこえはじめていたのです。
その時はもう、自分を完全に忘れ、その声に答えていました。
「俺に付きまとう目的は、一体何だ?」
まるで待っていたかのように、得体の知れないその声は、様々な事を要求してきたりしました。
当然の事ながら、自分を働かせてくれている恩人にも、その事を話し、相談もしました。
警察に出頭して、しばらくの間刑務所で頭を冷やしてくるか、
それとも本当に頭が狂ってしまったのか調べて貰う為に病院へ行ってみるか?そんなことも考えました。
しかし、恩人は、警察にもいく必要はないし、多少のことなら仕事をしながら頑張ってみなよと、言ってくれました。
これもすべて己との戦いと信じ、そんな状態で、一ヶ月近く働いていました。
自責の念に駆られたことも有るのか、毎日毎日、同じ声が自分のしてきたことを責め続けるのです。
前を向いて襟をただし、正直に歩いていこうとすればするほど、その声はひどくなりました。
何故声に踊らされてしまったのか?
声の要求に従って行動すると、必ず、声が指摘したとおりのことが、起きたからなのです。
さらに、自分の行動が全て読まれているように、偶然とは思えないような出来事が、次から次へと起きたからなのです。
ある日ついに、私はその声と勝負を付けるしかない、と考えるようになっていました。
その声に責められ、追い詰められ、決着を付けるには、自分で自分の命を絶つしかないと思えたのです。
死んで花見は咲かぬものの、もはや他に道はない、そんな思いでした。
仕事に行く日の朝、私は家族に対し、
今まで本当に迷惑をかけて申し訳なかったとだけ書き残し、
止る事のない急行電車に飛び込んだのです。
線路の中央で、まるでスローモーションのビデオでも見ているかのように、電車に弾かれました。
その後は意識を失い、自分が今どうなっているのかさえ分からない状態でした。それはほんの数分だったのでしょうか。
やがて、「まだ生きてるぞ」と言った人の声が聞こえ、
体中に激痛が走り、
声をあげることも出来ず、うめいていたのを今でも、覚えています。
死ねなかった!
このまま、生き抜いてしまうのでは?
激痛のなかで、こうなってしまった以上、身元を隠して、最後まで黙って通すしかない、などと考えていました。
警官が来て、
「誰かに押されたのか?」などと、色んな質問をされ、
病院に運ばれ、
「しっかりしてください」と看護婦さんに声をかけられ、
しかし私は、全てに答えず、ただただ沈黙をつらぬいていました。
身体中に走る痛み、
今、この身体は、どんな状態なんだろう?
このまま生き抜いてしまうのか
それとも、後わずかの命なのか?
手術が終わり、主治医から
「もう大丈夫。でも、両脚の切断だから、しばらくは絶対安静にしてください」
といわれたのは、ぼんやりとわかりました。
リョウ アシ セツダン 
何だろう どうなっているんだろう
その後、意識がはっきりとし、冷静に戻るまでは約一月半の時間がかかりました。
これが、私の経験した、覚せい剤による悪夢のような体験です。
「夢であって欲しい!」、何度も何度も心の中で呟いていました。しかし、両足切断という状況は、否応なしに認めなければならない現実だったのです。意識が戻って、治療も順調に進み、これからの事を考えて行かなければならない自分が、重くのしかかって来るのです。
逃げ出したくても逃げ出せない自分。これから何を頼りに何を目標に生きていけば良いのか?どうしようもない寂しさと不安の中に、身動きもとれずたった一人で苦しみました。
一ヶ月以上も寝たままで、ついていた筈の筋肉も落ち、手すりにつかまり身を起こすことも出来ず、車椅子に乗り移ることすら出来ない状態でした。体力が完全になくなり、毎日のリハビリに行くことすらきつい物でした。その上、悪いことが重なるもので、肩が上がらなくなり、エレベーターのボタンすら押せなくなっていたのです。
何度も何度も、死にたいと思うことが有りました。このまま生き恥をかいて生きて行くのなら、本当に死んでしまったほうがどんなに楽か!そう思う片側では、生きてこそ本当の自分の真価が問われるのでは、とも思っていたのも事実です。そんななかで、担当の看護婦さんが本当に親身になって世話をして下さり、前向きになれなかった自分の中に、少しだけ前を向いて歩いて行こうという気持ちが沸いて来ました。
 
事故を起こしてから4年目です。ここまで来るのに、本当に一言では言えないことが沢山ありました。励まされ、望みをつないで来られた事も多々有りました。まだまだ苦しみぬかなければならない事も、事実です。でも、本当に苦しい思いをしたのは誰だったのでしょうか?私は家族ではないかと思うのです。この様に身体になって、見舞いに来たことは一度もない家族が、一番苦しんだことと思っております。
覚せい剤に限らず、薬物は人生を確実に狂わせます。その場はなんでもなくとも、後遺症に悩む者もいれば、信頼関係を失う者も、家族を苦しめ続ける者もいます。薬物を使うということは、自分と他の人をつなぐ「絆」を自分で断ち切ってしまうことなのです。人が人として生きていくに当たって、大切なものとは一体何か?『絆』です。事情はどうであれ、薬物には絶対に手を染めない。もし、周りに手を出しているものが居るのなら、心を鬼にしてでも止めさせるべきだと。私は強く思っています。
私の経験は、薬物を乱用する者達の、誰にでも起こることではないかもしれません。ですが、覚せい剤を使って幻覚や幻聴を経験したことのある者は、多いと思います。しかも、当時の私は薬物を常用していたわけではなく、覚せい剤から完全に離れて10年近く絶って、魔がさしたというか、気がゆるんだというか、たった1回使った覚せい剤が原因で、始まったことだったのです。
薬物を使った影響は、いつ、どんな形であらわれるか、わからないと言う事を知って欲しくて、私は自分の恥を晒してでも手記を書いてきました。「自分の身体に何をしようが自分の勝手だ。誰に迷惑がかかるわけじゃあるまいし」。本当にそれで済む事なのでしょか?「自分はまだ大丈夫」、「少しだけなら心配ない」などと言い訳しながら薬物を使っている人たちに、私は「薬物を甘くみるんじゃない」と伝えたい。
正直に言うならば、薬なんて二度と手を出さないと思っている私でも、夢の中で覚せい剤に手を出してしまう自分が居たり、本当にしつこいくらいに付きまとわれるものなのです。
今の私は、生き抜くことで精一杯の生活を送っています。慣れないパソコン相手に頭を使い、思うように動かぬ指先に苛立ちを覚えながらも、これも私が生きて行く最後の道だと信じ、必死で毎日を過ごしております。
本当に死に物狂いで物事に立ち向かう時、大きな壁が立ちはだかりますが、その壁を乗り越えてやると覚悟を決めると、真の協力者に出会えるはずです。そしてその壁を乗り越えることに必ず手を差し伸べてくれます。その時は気がつかなくとも、後になってみれば「あの時、もしあの人と出会う事が無かったら!」という感じでね。
自分は、車椅子で一生過ごして行かなければなりませんが、目標が叶うまで絶対に諦める事無く、何度でも挑戦し続け、最後は協力して下さった方々と、声を張り上げ笑って過ごしたいと思っております。
当たり前のことですが、諦めることは簡単です。簡単なことは誰でも出来ます。難しいことに挑戦してこそ、進歩し、人としての真価が問われると思うのです。苦しくなったり、逃げ出したくなったり様々ですが、負けない、諦めないと思っております。生きている限り、やり直すに遅い事など何も有りません。失敗は取り戻せるのです。そう信じて私は逃げ出す事無く頑張って過ごしていく覚悟です。
最後に、この手記を載せて下さった、関係者の皆様に心よりお礼申し上げます。また、ここまで気持ちを持ち直せることに協力を頂いた皆様方にも、この場を借りて心より感謝の気持ちを込め、お礼申し上げて、ひとまず手記を終了させて頂きます。

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