2021/05/05

パスポート ②(BU)

DATE: 10/21/2015 16:32:15



前回に引き続き
「パスポート」
と、題して日本国内で暗躍する第3国コミュニティの
情報をお伝えする。


<span style="font-size:x-large;">イラン人</span>

麻薬、違法薬物と言えばまず思い付くのが
<span style="font-size:x-large;">イラン人</span>だ。

イラン人のコミュニティのネットワークは日本一



時は、1990年初頭の日本は3Kの労働力不足が問題視され
海外からの労働力に頼らざる得なかった

そこに流れ込んで来たのが
<span style="font-size:x-large;">イラン人</span>で
大量に流れて来たが、仕事は3Kで奴らは
1ルームに4-5人で住み
日々労働に励み、節約し出来る限りの
金を


地下銀行を通し本国へせっせと送金するという生活をし
大人しく暮らしていたのだが

本国へ送られる
金で
奴らの身内の生活はみるみる良くなって行くのを
近隣住民は羨む様な眼差しで
日々、向上する生活におののき
噂を知るや、こぞって日本を目指し入国して来たんやわ


東の果ての島国、この
にっぽんへ。

余りにも大量のイラン人は溢れかえり
情報を求め

上野公園へ集まりだしたのが丁度この頃や


そこに目を付けたんが、
ヤクザや、


仕事に溢れたイラン人を使い
違法薬物の末端密売人へと仕上げていった

当時は、上野公園に行くと
不正な物品はほぼ何でも手に入れる事ができた


代表的なんが
偽造テレホンカード
1千円のカード11枚=1千円
で売っていたな


俺は、そのカードを100枚単位で買い
大きな病院へ行き入院患者に
千円カードを、5百円で売り
かなり儲けたことがある


東京に見切りを付けたイラン人はっこぞって
大阪目指してやって来たんが
せやなぁ~
1993年頃かな、


初のイラン人との出会いは、
アリ
言う奴で、日本一交差点近くの1ルームマンションで住んでいた

最初は、チョコとエスを買うと言うより
ほとんど毎日部屋に遊びに行き
タダでご馳走になっとったんや
アリは
オピウムはいつでも持ってたが
ヘロイン
忌み嫌い、扱ってなかった



とか、何とか言うてる間に
大阪のミナミはイラン人の数が急速に増え

奴らの格好が日本人とは違い、ほとんどのイラン人が
ゴクヤン(ボンタン)
みたいなズボンを履いてたんで
ひと目で判別できた

その数は増す一方で
ミナミを歩いていると、前方から歩いて来るイラン人が
目が合った人、手当たり次第に



「アナタ、ナニイル?」

と、声を掛けていた


奴らの溜り場は、アメ村の三角公園前の
Isnt It.
と言うバーで
連日連夜イラン人が情報交換しているんや
ココで

俺と、先輩のアドバイスで
トニーと言うイラン人がついに
ヘロイン
を商売しだした


始めはトニーはヘロインを売る事を嫌がっていたが
半ば無理やりヘロインを仕入れさせた


当初は、クオリティーが悪く大阪では
こんなもん売れるかえと
返品させ、何度も東京-大阪を往復させたもんや


ほんで、ついに納得できるヘロインを持って帰って来た時は
7人で大喜びやったな

イラン人全てが1つの組織ではなく
何個かの組織に分かれていた

当然仕入れるルートも違えば売る場所も違う
そこで問題なんが、ギャングや別組織や
その対策に常に3人ひと組で行動し
売るのは1人
2人はボディーガードである


また、1人に金を渡し、品物は別の奴から受け取る
など、色々な工夫をしていた


実際、俺の知る、アレックスと言う奴が
岸和田のギャングに合い
腹を数十センチナイフで刺された直後の現場に
出くわした事があり、アレックスのボスの
アルファに連絡し、救急車の手配をした事がある



アレックスは、現金、品物
全て強奪されており、瀕死の状態であった


当初は、何人ものイラン人がヘロインを売っていたが
そうそう、ヘロインを扱うまでは、
ヘロイン以外のほぼ全ての薬物が
ミナミの道端で簡単に手に入れる事が出来た
薬物の黄金期で

大阪で、後にも先にもこんな状態があったんは
この時だけや
素晴らしい時代やったな

イラン人にまつわる
逸話は腐るほどあるんで、とりあえず
今日のところはこの辺で締める事にする

アディオス


Continueにスーパーハイミーのニコニコ版が
あるので、暇な人は見たら?
視聴期限があるみたいやから
早めに見な終わるで

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